2009年09月17日

2009年9月16日、民主党政権発足=小泉元首相の公約「自民党をぶっ壊す!」の実現、その陰に大仁田劇場あり

よろしければクリックを! → FC2&シーサーブログランキング 


今回の文書は、ほとんど妄想です。
しかし、大仁田厚について何か語る時、妄想なくして成立する
ものでしょうか? 
妄想してでも語りたい「魅力」、とまでは言わないけど、
何かが、大仁田にはあるんです(注:しゅうたろうはプロレスラー
には敬称は付けません。敬称がないことこそプロレスラーへの
敬意だと考えているので)。


先の衆議院議員選挙で民主党が大勝、自民党が惨敗し、昨日、
とうとう政権が交代して、民主党の鳩山由紀夫内閣が誕生しましたね。
自民党が下野しての非自民政権は細川連立内閣が発足した
1993年以来16年ぶりのことですが、当時の熱狂、その後の尻すぼみを
記憶しているので、手放しで歓迎するわけにはいきません。
けれども、現在の閉塞感を打ち破るためには必要なことだとも
考えています。

これで、「自民党をぶっ壊す!」とぶちまけて首相になった
小泉純一郎元内閣総理大臣の夢が、ある意味で叶って、
「小泉劇場」が完結したわけですが、この道のりに、
「小泉チルドレン」の一人、と言っていいのかよく分かりませんが、
大仁田の活躍がありました(!?)。


小泉元首相の一連の劇場型政治は良くも悪くも印象的で、
誰が名付けたか「小泉劇場」と呼ばれ、国民の耳目を集めましたが、
これはプロレスラー大仁田厚が1998年頃から2000年まで繰り広げた
「大仁田劇場」が元ネタではないかと、しゅうたろうは信じています。
つまり、「大仁田劇場」なくして「小泉劇場」というネーミングは
なかった、と。この流れはプロ野球・新庄剛志選手の「新庄劇場」
まで続いていきます(注:その後、大仁田は2007年に国会議員を
辞めてから本格的にプロレスに復帰しましたが、再び大仁田劇場を
繰り広げているとも言われています)。

「大仁田劇場」とは、インディーズで“邪道”の立場の大仁田が、
メジャー団体である新日本プロレスを挑発し、大物レスラーとの
対戦を次々と成功させ、最後に当時引退していた長州力を復帰させ、
死闘を繰り広げるまでたどり着いた過程での、マスコミに見せる
ことを前提としたパフォーマンスの総称です。


中でも、プロレス実況を担当していたテレビ朝日の真鍋由アナウンサー
との、まるで小劇場の芝居のような泥臭いやり取りを指します。

基本的には大仁田が一方的に言いたいことを言い、したいことを
するのですが(真鍋アナを理不尽に殴ったり蹴ったりも数知れず)、
気弱に見えた真鍋アナも次第に自己主張するようになり、その連続
ドラマのような内容が、プロレスファン以外にも、いささか苦笑混じりに、
注目され続けたのです。

これに関しては先日の『アメトーーク!』のプロレス特集でも
結構な時間をさいて紹介されていましたよね。
この「大仁田劇場」も誰が命名したのか、元週刊プロレス編集長の
ターザン山本氏ではないかという話もありますが、判然としません。

さて、劇場で主役をはる以上はそれなりの演技力が必要なのですが、
この前段階として、大仁田はNHK大河ドラマ『秀吉』(1996年)、
TBS『ひと夏のプロポーズ』(1996年7月〜9月)、
テレビ朝日『ボディーガード』(1997年7月〜9月・長渕剛さんと共演!)
などで、しっかりと“演技”の修業を積んでいます。


というわけで、国会に行った自民党・大仁田参議院議員の仕事は、
国会混乱時の用心棒だけではなく、小泉首相(当時)に、
大衆の煽り方、マスコミの利用の仕方などを伝授することでは
なかったかと考えているのです。直接的か間接的か分かりませんが、
小泉首相(当時)は大仁田議員から「劇場」の作り方を学んだはず
なのです(重ねて言いますが、今回の文書はほとんど妄想です)。
結論としては、大仁田が民主党政権を誕生させたということです
(しつこいですが、今回の文書はほとんど妄想です)。

それにつけても、「大仁田劇場」。当時、あれほど多くの人が熱狂した
はずなのに、インターネット上で、詳しく経過をまとめている
サイトはどうも見付かりませんね。一番詳しくまとめていてくれたのは
長州力応援Blogでしょうか。
でもそんな「一時の打ち上げ花火」、これが大仁田らしさなのかも
しれませんね。参考までに調べられた範囲で経過を示します。


〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

■1998年11月18日 於:京都府立体育会館
新日本プロレスの会場に乱入し、「器量があるならちゃんと返事をしろ!
狙うは長州の首一つ!」と現役を退いている長州へ対戦を要求。

■1999年1月4日 於:東京ドーム
大仁田厚 対 佐々木健介
5分55秒、大仁田が火炎殺法を繰り出して反則負け。
※レフェリーの山本小鉄さんを激怒させる。

■1999年4月10日 於:東京ドーム
 
“大仁田劇場シリーズ!!”興行
ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ
大仁田厚 対 蝶野正洋
16分10秒、両者KOドロー。

■1999年8月? 於:大阪南港

「グレート・ニタ」復活の儀式(?)により、ニタが蘇る。
立会人:真鍋アナ

■1999年8月28日 於:神宮球場
ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付電流地雷爆破
ダブルヘルデスマッチ
グレート・ニタ(大仁田厚) 対 グレート・ムタ(武藤敬司)
13分32秒、ムタが鎖がまの柄でニタの脳天を直撃→体固め
(ニタの負け)。

■2000年5月22日
長州力がリング復帰を表明!

■2000年6月30日 於:海老名運動公園総合体育館
練習中の長州力に大仁田が電流爆破の要望書を渡そうとするが、
長州が客席とリングサイドの境界を指差して、
「入るな! 入るな! 入るなよ! またぐなよ! コラ!
またぐな。またぐなよ。またぐな。またぐなよ、絶対に!」と
大仁田を牽制。いわゆる『またぐなよ!コラ!事件』。

■2000年7月30日 於:横浜アリーナ 
“長州力復活「邪道終焉」”興行
ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ(時間無制限1本勝負)
大仁田厚 対 長州力
7分46秒、サソリ固め→レフリーストップ(大仁田の負け)。
※テレビのメイン実況は辻よしなりアナ。
真鍋アナは別バージョンとして大仁田から贈られた背広を着て
実況→試合後、担架で運ばれる大仁田を追って「大仁田劇場」の
集大成を繰り広げる。


〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
・〜・〜

プロレスラー・大仁田については、アンチが沢山いることは
承知していますが、純粋に運動神経が良いとか体格が良いとか
腕力があるとかいうレスラー以外にも、活躍の可能性はある、
主役になれる可能性がある、ということを示してくれた点で
刮目(かつもく)に値すると思います(ただ、あくまで遠くから
見ていたい存在で、身近くにいたら困っちゃいますが)。

世の中のほとんどの人は凡人で脇役です。でも、一部の天才や
容姿の良い人しか活躍できないとしたら、あまりにも寂しい
じゃないですか。
まあ、大仁田がここまで考えているか知るよしもないですが。


posted by しゅうたろう at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | プロレス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

「スパルタンX」から三沢コールが聴こえるのは幻聴じゃない

よろしければクリックを! → FC2&シーサーブログランキング

 

三沢光晴が早すぎる伝説になってしまったのは6月13日。
この日が何か引っかかると思っていたら、太宰治の命日でした。
そして太宰の誕生日が6月19日(今年、生誕100周年)、
三沢の誕生日が6月18日。三沢が太宰
にどれほどの
関心を持っていたか知りませんが、しゅうたろうにとっては
共通点のある二人となってしまいました。
なお、プロレスラーには敬称はいらない、呼び捨てにされてこそ
一人前だという持論があるので、この文章では三沢と呼び捨てにします。


しゅうたろうが三沢の存在を知ったのは、確か、1991年ごろ、
『とんねるずのみなさんのおかげです』(現在は『―でした
)で
タカさんがコントの最中に「三沢のエルボー」とか言って
真似していたのを見たのがきっかけでした。
その頃、新日本プロレスしか知らなかったしゅうたろうには
意味がよく分かりませんでした。「三沢」が人名なのか地名なのか、
他の何かなのかさえも。いや、正確に言えば全日本プロレスの中継も
何度か、少しだけ見たことがあったんですけど、
新日に比べてジョー樋口さんのフォール時のカウントが
遅いように感じてなじめなかったんです。
だいいち、その新日にしても80年代後半にTV放送が
ゴールデンタイムを外れてからはあまり見ていなかったくらいで。


それから2年くらい経ち、たまたま
見た全日本プロレスの中継で、
噂の三沢の戦いを初めて目にしました。その試合はタッグマッチで、
相手は格下だったせいもあり、三沢の活躍は
あまり見られませんでしたが、とにかく精密機械のように
冷静なファイトをする人だな、という印象でした。


しかしその印象は、しゅうたろうの環境の変化から、
再びプロレスに興味をもつようになった94年に一変しました。
プロレスを見るようになったということは三沢の全日だけでなく、
新日も見るようになった(ついでに全日本女子プロレスも)という
意味なんですが、全日のいわゆる「四天王プロレス」、すなわち、
「王道プロレス」はしゅうたろうのプロレス観を一変させるものでした。


限界ギリギリの危険な技の応酬、
ダウンに次ぐダウン
得意技を出し尽くして30分以上経過してようやく決着……。
それはブック(ヤラセ)とかシュート(ガチンコ)とかいう
邪推を差し挟む余地のない最高のエンターテインメントでした。
観客が熱狂して叫んだり手を叩いたり足を踏み鳴らしたりして
轟音が場内に響く、いわゆる「重低音ストンピング攻撃」
(命名は福澤“ジャストミート”朗さんでしょうか)の数は尋常じゃ
ありませんでした。

基本的には飛び技、投げ技、打撃技をオールマイティーに
繰り出し、冷静でありつつ熱い面も随所に見せる三沢のファンと
なったんですけど、テーマカラーもファイトスタイルも異なる
川田利明、小橋健太(現:建太)、田上明
それに加えてスタン・ハンセン、スティーブ・ウィリアムスといった強豪の
外国人レスラーがいたからこそ、三沢の強さを実感できたのです。
もちろん、そんな三沢も負けることがあったんですが、
精一杯のファイトで楽しませてくれた試合内容に
不満を持つことはほとんどありませんでした。


そんなわけで、90年代中盤から後半は全日の試合に
酔いしれていたのですが、馬場、鶴田の死去、
プロレスリング・ノアの発足(三沢と川田の別離)、
またしゅうたろう自身の仕事の忙しさなどが相まって、
プロレスはしゅうたろうの生活の中心からいつしか遠のいてしまいました。
もう少し三沢の試合を、生き様を、目に焼き付けておけばよかったと
悔やまれてなりません。


今回、三沢が逝った後、亡くなる1ヶ月前の試合映像を目にする
機会を得ました。そのタッグマッチで三沢はあまり登場せず、
登場しても出す技はほとんどがエルボーで、
コーナーで待っている際も辛そうでした。
それでも時には無理して場外へ飛んだりして……。
「満身創痍(まんしんそうい)」という言葉がこれほど実感できることも
そうはない、と悲しい気分でいっぱいになりました。


王道プロレスは、新日のように試合内容以外の
アングル(ストーリー)でファンの興味をつなぎ止めなくて
よいという面はあったけど、今回改めてネットなどで調べたところ、
実際に戦っているレスラーには相当の負担が蓄積していたようで、
だから、「受身の天才」の三沢にこんな不幸が起こってしまったのです。


その意味では、他団体との交流戦を積極的に行っていたノアは
選手の負担を軽減する意味では良い方向に向かっていたのかも
しれません。けれど、
プロレス自体の黄金期が過ぎ、昨今の不況の中、
テレビ中継も縮小され、それだけでは経営が
潤うという
次元にまでは行っていなかったようで……。
だから、三沢は死の数日前に今年中の引退を相談していたそうですが、
実現したかどうか……。結局はマットの上で命を落とす宿命だったのでは
ないかと思ってしまうといっそう涙がこぼれます。


この三沢の死を無駄にしないためには、ノアに限らず、
王道プロレスの激しく危険な要素をもう少し排除して、
試合時間を制限し、絞め技や関節技などのギブアップでの決着でも
ファンが満足するような状況を作らなければならないのかもしれません。
そしてファンも満足しなければならない。それはきっとここ10年くらいの
プロレスと比べると退屈でしょうがないものになるでしょうが、
全盛期を過ぎていたとはいえ、最高最強のプロレスラーが
命を落としたことはそれくらいの意味を持つのではないでしょうか。


それにしても、三沢の入場曲であり、
勝利した時にも流れる「スパルタンX」。
じっくり聴いてみると、何とも陽気な曲じゃないですか?
激闘に勝利した後、会場に詰め掛けた観客は
リングサイドに押しかけ、感動をくれた三沢(とその対戦相手)のために、
曲に合わせて「三沢コール」を連呼します。
そんな状況にこの曲を流すことを選んだ三沢は、
「別に大したことしてないよ。好きでプロレスしてるんだし」
と照れ隠ししているように思えてなりません。

合掌。

posted by しゅうたろう at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | プロレス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。